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人間国宝・荒川豊蔵の志野と随縁など

 天正14年(1586年)頃の茶会記に突如出現し、以後に茶陶として使われた志野ですが、慶長期になると生産効率の問題などから衰退し、ついには途絶えてしまいました。『志野』という名称の由来は、香の名人の志野宗信によるという説もありますが、真相は未だに不明です。当時の茶碗は、楽を代表とする無地のものが愛用されておりましたが、志野は筆で模様が描かれた日本で最初のやきものであり、当時としては斬新な存在でした。創始者は誰であるかは不明であり、当時の箱書きのあるものは存在せず、また誰が特に愛用したかも不明であるなど、とにかく志野は謎多きやきものなのです。
 荒川豊蔵は、大変苦労した末に、昭和になって、ついにその志野を復興・再現することに成功し、人間国宝にもなった志野で最高峰の陶芸家です。下記の表に示すように陶芸家は一般に非常に長生きですが、荒川豊蔵は特に長命で、昭和60年に91歳で他界しました。陶芸家が一般に非常に長生きの理由については目下研究中ですが、山の中に仕事場(窯場)があるという素晴らしい環境とマイペースで自分の思うように仕事ができるということが、少なくとも長命に関係しているものと思います。このことに関しては、ホームページからも見ることが可能な私の論文『健康長寿の秘訣』を参照して下さい。健康長寿法や、やきもの(特に抹茶茶碗)の研究者として、今後さらに荒川豊蔵の研究を続けていきます。とにかく、作品の素晴らしさと非常に長寿だったという両面が凄いのです。


 志野茶碗に絵付けをしている荒川豊蔵

【注】『茶碗』の『碗』という字は、他にもいくつかあり、『茶碗』とは飯茶碗などのように使う一般的なものです。荒川豊蔵の箱書きには全て『茶垸』と書いてありますが、ここではわかりやすく『茶碗』と書いておきます。後に示す荒川豊蔵の茶碗の箱書きを参照下さい。


★明治27年3月17日   岐阜県土岐郡多治見町に生まれる。母方は多治見の高田で製陶業を営む陶祖・加藤与左衛門景一の直系であり、桃山時代以来の美濃焼の陶工の血筋を受け継いで荒川豊蔵は生まれた。 
★大正11年 28歳 京都・東山窯の工場長となる
★昭和2年4月 33歳 北大路魯山人の鎌倉・星岡窯に移る
★昭和5年4月 36歳 名古屋・松坂屋百貨店で開催された「星岡窯主新作展」に北大路魯山 人と来名。その時に、名古屋の旧家・関戸家所蔵(現在は徳川美術館所蔵)の「志野筍絵 筒茶碗」(下に写真を示す)と「鼠志野香炉」を見せてもらう。その結果、志野などの桃山時代の名陶が瀬戸で焼かれたという従来の説に疑問を持ち、展覧会終了後に、美濃の大平と大萱の古窯跡を調査した結果、ついに大萱の牟田洞窯跡で、先に見た関戸家所蔵の志野筍絵筒茶碗と酷似した図柄の志野の陶片を発見した(後で解説する『随縁』だそうです)。
こうして、桃山時代の志野などの名陶は美濃地方で焼かれたことを証明。
★昭和9年 40歳 牟田洞に築いた自分の窯で最初の作品を完成させる
★昭和16年10月 47歳 大阪・阪急百貨店で初の個展を開く 
★昭和30年2月 61歳 志野と瀬戸黒の重要無形文化財技術保持者、いわゆる「人間国宝」に指定される。
★昭和35年1月 66歳 光悦筆で宗達鶴下絵の「三十六歌仙和歌巻」を見つけて入手する
(これも「随縁」とのこと)。
★昭和46年11月3日 77歳 文化勲章受章
★昭和60年8月11日 91歳  他界


荒川豊蔵が古志野を復興するきっかけとなった
桃山時代の「志野筍絵筒茶碗」 歌銘 『玉川』
(現在は徳川美術館所蔵)

上の古志野の茶碗を参考にして、昭和のはじめに荒川豊蔵が再現に成功したのが次の志野茶碗です。これは特別の茶碗なので、苦労を共にした奥様の「志づ」さんに贈りました。

 志野筍絵茶碗 銘 『随縁』(豊蔵資料館所)   記念すべきこの茶碗だけは決して手放してはいけないとの奥様へのメッセージ
(しかし奥様は荒川豊蔵よりも17年先に他界)
       (豊蔵資料館所蔵)

荒川豊蔵作 『志野竹の子絵茶垸』
(『竹の子の絵』は荒川豊蔵にとって特別の意味があります。)


 『随縁(ずいえん)』とは、『縁に随(したが)う』のことで、この世のすべてのことは縁によって結ばれており、逆らわずにそれに随って生きるのがよいといったような意味で、元は仏教用語とのことです。『随縁』は、筆者が非常に好きな言葉です。人間を長くやっていると、人生は、やはり『随縁』が重要だと実感しております。たとえ良くないことや嫌なことに遭遇しても、自分はそういう運命・宿命にあったんだと割り切って考え、『随縁』を実行すれば、ストレス度も高まらず、ひいては健康長寿にプラスになるはずです。
 大萱陶房の片隅に、大きな石碑がありますが、そこが荒川豊蔵が記念すべき『志野筍絵筒茶碗』の破片を拾った場所なのです。石碑の表面には『随縁』と書いてあり、裏面には『昭和5年4月11日此の地点に於て、古志野筍絵陶片を発見、これが美濃古窯発見の契機となる。昭和甲辰夏 発見者 牟田陶人誌 建立協力者 敦賀住西崎氏 猶 国宝 銘 卯の花墻 志野茶碗 此の名碗陶片 も亦この地にて発掘す』と刻まれています。
 荒川豊蔵が言った言葉:『随縁というのは、縁に随うことで、とりたてて難しい意味はない。ただ人間は悲しいことに、この縁がなかなかわからない。見えないといった方がいいかも知れない。だから実際に行うのはなかなか難しい。人間は、こうありたい、ああ、ありたいといろいろ考えては努力するが、縁のないものは、いくら努力しても、結局成就しない。もう一歩のところで向こうからはずれる。私なんか、最初は絵描きになるつもりでああこうやってみたんだが、結局ダメだった。最後はやきもの屋になってしまった。偶然といっていいかどうか、わからないが、美濃の古窯を発見した。だんだん調べてみると、これは私の血のつながる先祖が開いたものだった。私は縁の不思議を感じ、それから陶芸を志した。』
古志野の発見ができたのも『随縁』によるとのこと。そのへんの経緯については、次に示す荒川豊蔵筆の『随縁の記』という巻物に図入りで詳しく描かれています。

荒川豊蔵筆の巻物 『随縁の記』


 さらに、次に示す荒川豊蔵著『縁に随う』(昭和52年・日本経済新聞社刊)という単行本は、『随縁』や荒川豊蔵に関して非常に参考になりますので、ぜひお読み下さい。ただし、当方は3冊所蔵しておりますが絶版で、現在では古本でも入手困難です。

荒川豊蔵著『縁に随う』 (左側は外箱、右側は書物本体)

荒川豊蔵は、『随縁』という言葉に特別の思い入れがあり、上記の第一号『随縁』銘の志野筍絵茶碗の他にも、『随縁』という銘をいくつかの茶碗に付けております。その実例を次に示します。


荒川豊蔵作 志野茶碗 銘『随縁』

荒川豊蔵作 鼠志野茶碗 銘『随縁』
 荒川豊蔵作 瀬戸黒茶碗 銘『随縁』     荒川豊蔵作 信楽茶碗 銘『随縁』
(この茶碗自体の胴に『随縁』という文字が彫られている)

 上記の茶碗に彫り込まれている『随縁』の字体をそっくり真似て、その文字を彫り込んだ筆者自作の筒茶碗を次に示します。




 荒川豊蔵は、さらに志野について次のように書いています:『志野はあらゆる陶器の中で、もっとも日本的な味わい深い焼きものである。日本ではじめて完全な白い釉を生みだした画期的な焼きものであり、さらに筆ではじめて模様を描いたこと、形の上でもこれまでにない独創的なものを作り出したことなどが、その主な特色としてあげられる。白い釉といっても朝鮮や中国の白さでなく、やわらかい感じの長石の釉が、厚くたっぷりとかかっており、あたたか味を感じるものである。そのところどころに、緋(火)色という志野独特の調子の薄紅色が、柚子のようなぽつぽつアバタのある膚に、自然ににじみ出ている美しさは他の国にも類がない。』荒川豊蔵が後半の人生をかけて、本格的に志野の追及を始めたのは、この志野の日本特有の美しさ・魅力のためであったと思われます。
 さらに志野の特徴として『もぐさ土』があります。これは、お灸に使う『もぐさ』に色と雰囲気が似た軽い感じの珪沙の混じった蛙目質の土で、成形は難しいのですが、焼き上がるとザックリとしてあたたか味を感じる量感が出ます。
 桃山時代に突如として日本で生れた志野は、最も日本人的な情感があふれている焼物ですが、江戸時代になると突如として作られなくなってしまい姿を消してしまいました。この最も日本的なやきものといえる志野を、長い空白の時を越えて現代に蘇らせたのが荒川豊藏なのです。
 桃山時代の大萱牟田洞窯では、下に写真を示す現在国宝になっている志野茶碗 銘『卯花墻(うのはながき)』も焼かれました。国産の茶碗で国宝になっているのは、この他には本阿弥光悦作の楽茶碗 銘『不二山』があるのみです。

国宝の志野茶碗 銘『卯花墻』 (三井記念美術館所蔵)




その茶碗の高台付近の様子

桃山時代に美濃大萱古窯で焼かれた古志野茶碗(荒川豊蔵の識付き)

古志野撫四方形茶碗

古志野茶碗

古鼠志野竹の子絵茶碗 (古志野茶碗にはなぜか『竹の子』の絵が多い)

桃山時代に美濃大萱古窯で焼かれたものであるという荒川豊蔵の識(鑑定)のある茶入


古志野の香合 (約8cm四方の大きいもの)

 古志野の茶巾置  桃山時代~江戸時代初期の絵志野皿
(欠損部分を亀甲文金蒔絵で補修してある)


次に荒川豊蔵の志野茶碗を示します。


荒川豊蔵の茶碗の典型的な形

同左

 これも荒川豊蔵の志野茶碗ですが、ちょっと見たところでは凸凹がとても目立ち、外観が普通のものとは少し異なっていて、使いにくそうに感じると思います。ところが、これで実際にお茶を点てて飲んでみると、非常に驚く、すごいことがあります。

 すなわち、かなり使いにくそうに見えるその凸凹は、なんと茶碗を保持する左右の手の指が、ちょうどぴったりはまるように、とてもうまく設計されているのです。これは偶然とは思えません。抹茶を点てて飲む時は、茶碗の正面を避けるために、茶碗を左手の平の上に乗せて、右手の指で右回りに少し回し、右横およそ90度の位置に口を付けて飲みます。その飲む時に茶碗を保持する左右の手の指の位置が、ちょうど茶碗外側の胴の複数の溝にぴったりとはまり込み、さらにそれに加えて両手の親指の先が、釉薬の白い突起のすぐ下にくるので、茶碗を完璧に保持できます。

 口を付ける位置は、上記のような茶碗の回転によって自動的に決まりますが、その部分(飲み口)も他の位置に比べて飲みやすい厚み・形になっております。荒川豊蔵の茶碗では、そのようになっているものが多く、飲みやすい形に作ろうとする作者の気持ちがよく伝わってきます。この茶碗で最初にお茶を飲んだ時には、茶碗の凸凹と両手の指が、あまりにもぴったりと合い、茶碗と両手の指が完全に一体化するので、びっくりしました。まるで両手の指の型を取って作陶したかのような形状なのです。こんな茶碗が他にあるのでしょうか。ちょうど一眼レフカメラなどのグリップみたいで、ちょっとやり過ぎのような気もするくらいの見事な形状の茶碗です。


 比較のために、荒川豊蔵と特に関係の深い川喜田半泥子(『からひね会』を主催して荒川豊蔵らを指導)、北大路魯山人(同じ窯で作陶したことがある)、加藤唐九郎(良きライバル・仲間)、加藤孝造(荒川豊蔵に師事・人間国宝)の作品の志野茶碗を次に紹介します。

 川喜田半泥子作(破格な作品が多い)  北大路魯山人作(個性的な作品が多い)
加藤唐九郎作(力強い作品が多い)   加藤孝造作(全体が薄紅色でほのぼのとした柔らかい雰囲気の作品が多い)



豊場惺也 志野茶碗

 豊場惺也(とよば・せいや)は、1942年生まれで現在も活躍中。荒川豊蔵の内弟子となり、直接指導を受けた一人。1975年に荒川豊蔵の孫娘と結婚したので、荒川家と姻戚関係にある。豪快でユーモア心にあふれる性格のようで、α波が高そう。きっと荒川豊蔵(91歳で他界)以上に長生きされることでしょう。ここに示す志野茶碗は、荒川豊蔵の作風に似ており、さらにその箱書きも、下に示すように似ております。この茶碗は、やや大振りで存在感があり、茶溜まりの周囲にある目跡(置き目)の景色も見事です。口造り付近には梅花皮(かいらぎ)は少なく、この程度なら抹茶もあまり染み込まないので、筆者的には実用になります。荒川豊蔵の梅花皮の強い茶碗ですと、見ているだけなら造形美として素晴らしいのですが、実際にそれで抹茶を飲むと、そこへ抹茶が染み込んで、その後の処理が大変ですので、なかなか使えません。


左:豊場惺也の志野茶碗の箱書き   右:荒川豊蔵の志野茶碗の箱書き

 実は、このホームページの少し上に掲載してある『随縁銘の信楽茶碗』は、その箱書きにも書いてあるように、荒川豊蔵と豊場惺也の合作なのです。その写真の箱書きをよくご覧下さい。


林正太郎の『志野梅紋茶碗』と『絵志野銘々皿』(箱書きどおりに記載)
お菓子は奈良・萬勝堂の『修二会の椿』

 志野茶碗などでカイラギ(梅花皮=釉薬のちぢれ)が強く出ているものは、見ているだけならば、景色として素晴らしいのですが、実際にそのような茶碗で抹茶を飲むと、その割れ目に抹茶が染み込んで、後始末が非常に厄介で、常に飲むのには適しません。しかし、この茶碗は、飲み口付近がとても滑らかで、そのような心配がほとんど無く、現在よく使っている茶碗の一つです。
 『修二会』とは、『お水取り』の通称で、春の訪れを告げる奈良・東大寺二月堂の行事のことです。その際、本尊の十一面観音に椿の造花を捧げますが、それにちなんだお菓子が『修二会の椿』で、中が黄身あん、外側の花びらが羊羹でできており、食べたときの両者のハーモニーが絶妙で、とても美味しく、この時期のみの限定販売なので、その時期が来るのを毎年楽しみにしております。


『糊こぼし椿』の土鈴(左端)と麻布製の造花(右の三つ)

 『糊こぼし椿』とは、その昔『お水取り』に使う造花の椿を作っていた時に、その赤い紙に糊を誤ってこぼしてしまい、白い斑点のある赤い椿になってしまいましたが、東大寺二月堂の南西にある開山堂の庭に咲く椿の花(非公開ですが咲けば土塀の上に少しだけ見ることができます)に似ており、それ以来『糊こぼし椿』(東大寺開山の良弁(ろうべん)大僧正にちなんで『良弁椿』ともいう)と呼ぶようになったものです。これは奈良の三銘椿の一つですが、残り二つは、白毫寺(びゃくごうじ)の『五色椿』と伝香寺の『武士椿』です。この後者二寺の椿は一般公開していますので、誰でも容易に見ることができます。
 『お水取り』は、正式には『修二会(しゅにえ)』、もっと正式には『十一面悔過(じゅういちめんけか)』といいます。すなわち、我々が日々犯しているさまざまな過ちを二月堂のご本尊である十一面観世音菩薩の御前で懺悔する行事で、天平勝宝4年(752年)以来一度も途絶えることなく、今年で1262回目の毎年続いている大和路に春を告げる特別の催事です。3月1日から14日までの『おたいまつ』は、火のついた大きな『たいまつ』を振り回して二月堂の欄干から火の粉を散らしながら走るもので、とても迫力があり有名ですが、すでに2月から非公開の様々な行事が始まっております。

『糊こぼし椿』の実物の写真

 『糊こぼし椿』の実物は、この写真に示すように、赤い花びらの中に糊をこぼしたかのような白い部分がありますが、造花や和菓子では、赤い花びらと白い花びらを交互に組み合わせて作ってあります。実際に『お水取り』で使う造花の花びらは紙製で、赤い色は紅花の色素で、雄しべの黄色は、くちなしの実の色素で、それぞれ色付けします。さらに花の芯は、タラの木で作ります。この造花を椿の生木(この頃まだ本物の花は咲いていない)に挿して、3月1日の夕方に十一面観音の須弥殿の四方に飾って、いよいよ二週間にわたる、非常に見ごたえのある誰でも毎晩見ることのできる『おたいまつ』の開始となります。
 椿は日本原産の植物で、学名もそれにふさわしく Camellia japonica です。椿には邪気を払う力があるとされ、仏教でもよく使われますし、茶道の世界では、椿は炉の季節の最も代表的な茶花であり、特に『侘助椿』は茶花に向いております。




江戸時代初期の古志野掛花入に活けた藪椿

 これは、掛花入にも関わらずかなり大振りで、茶花の活け方の約束事である『一花三葉』や『一花五葉』などには従わずに、取ってきた藪椿をそのまま突っ込んだだけの状態です。










荒川豊蔵作 志野ぐいのみ と 志野徳利
手前は加藤孝造作 紅志野の小皿(西利のナスの漬物と生ウニを盛ってある)
(このような取り合わせで一献は最高)

 さらに次のような人間国宝・加藤孝造(1935年3月12日生~現在)の芸術作品の志野で飲むと、この上ない至福の時間が流れます。この作品は、さすがに加藤孝造作と思わせる貫禄たっぷりの素晴らしい酒器で、ぐいのみと徳利の両方に梅の枝と花が、さりげなく描かれています。これは加藤孝造特有の、ほんのりとピンクに染まった温かみのある柔らかい感じのする志野で、酒器自体がほろ酔いになっているみたいです。これこそまさに『陶酔』ですねー。これで飲めば、人間も陶酔して、とても癒され、脳波も良くなって健康増進にきっと貢献することでしょう。さらに、この写真に写っている岐阜県と土岐市の無形文化財保持者・林正太郎(1947年7月31日生~現在)や人間国宝・鈴木蔵(すずき・おさむ:1934年12月1日生~現在)の志野も、非常に素晴らしい作品です。加藤孝造や鈴木蔵は、すでに人間国宝ですが、林正太郎もかなりのレベルだと思いますし、筆者が注目している志野の陶芸家です。
 たとえ人間国宝級の高級なやきものであっても、美術館のガラスケースの中に入れて展示しているだけとか、蔵の中に大切に保存しておくだけではダメで、実際にどんどん使うべきです。特に土もの(やきもの)は、磁器とは違って使い込むほどに味が出てきますので、その変化も、やきものの楽しみの一つです。やきものは、長年全く使ってないと、干からびた生気のないものになってしまいます。

オール特別志野による一献

◎奥は加藤孝造作の志野梅文ぐいのみと徳利。
◎手前左端は林正太郎作の志野梅文角皿、その右の丸い小皿は全て加藤孝造作の志野。
◎箸置は鈴木蔵作志野鯛形(鈴木蔵は箱書きに『志埜』と書いております)。
◎酒の肴は、これらの作品群のレベルに合わせて最上級に、
 左から『伊勢えびの刺身』、(しょうゆ)、『カラスミ』、『鮒ずし』。

上の写真では、食品が盛付けてあってよく分からないので、皿だけの写真を次に示します。

左:林正太郎作 志野梅文角皿    右:加藤孝造作 志野丸皿


やはり志野は、いいですねー。癒しにベストなやきものは、やはり志野です。

人間国宝・加藤孝造作 志野梅絵湯呑   奈良・菊屋の季節の和菓子『錦秋』

 湯呑の中は、抗酸化力やβ-カロテン、ビタミンC、ビタミンEの含量がトップクラスで、健康増進に最適の、筆者が開発した『有機茶パウダー』と湯を混ぜたお茶です。この湯呑は、加藤孝造らしい、女性的なとても柔らかくて上品な感じの作品です。これでお茶を飲むと、かなり癒されます。
 菊屋は本店が奈良県大和郡山市にある創業四百有余年の老舗の和菓子屋で、郡山城にちなんだ当初からの歴史ある『御城之口餅』は特に有名です。


山田 和 作 志野湯呑    林 正太郎 作 紅志野梅絵銘々皿
お茶は『有機茶パウダー』 お菓子は京都・鶴屋吉信の季節の和菓子『冬ごこち』
お盆は京都・象彦の塗り

 鶴屋吉信は、江戸時代の享和三年(1803年)、初代鶴屋伊兵衛氏によって創業された京都でも老舗の和菓子屋さんです。代表取締役会長さんによると『京菓子は、目で形と色彩をたのしみ、耳で菓銘の文学的な響きを鑑賞し、かぐわしい季節の香を嗅ぎ、口に食べて風味を味わう、まさに五感を働かせて風雅をたのしむ境地を求めております。これは伝統文化をはぐくむ古都ならではの食文化と申せましょう。』とのことです。



『緑茶とクリームチーズのミニタルト』  鈴木五郎 志野カップ

 このケーキは、筆者が開発した『有機茶パウダー』入りの『クリームチーズタルト』で、三重大学の南すぐの志登茂川(しともがわ)北畔にある人気の『ウレタノ・カフェ』(『し』に由来)で製造販売しているものです。これは経営者の奥様の力作で、非常に好評を得ているベストセラーのケーキです。『緑茶とクリームチーズのミニタルトは、もう売切れました。今日もよく売れたの!』のウレタノ・カフェ(Uretano Café)でもあります。
 このタルトのカット面の写真でも分かるように、特にその下部に『有機茶パウダー』がたっぷり入っています。タルトを乗せている皿は、筆者の作品です。津市にある三重大学方面へ来られたら、ぜひこれを食べてみて下さい。有機茶パウダーとクリームチーズのハーモニーが絶妙で、とても美味しいですよ!
 この『志野カップ』(この名称は作者の命名による)は、ダイナミックで躍動感溢れるデザインで、上記の加藤孝造の湯呑とは対極にあるような感じの作品です。

新製品の『緑茶と小豆のショートケーキ』 安藤日出武 紅志野珈琲垸

 このケーキもウレタノ・カフェ製で、2012年11月8日から発売を開始したばかりの新製品です。やはりこれも筆者が開発した『有機茶パウダー』の他に、小豆と黒豆も入っております。このケーキも美味しいですが、今後さらに改良を重ねていくそうです。
 紅志野珈琲垸(箱書きにこのように書いてある)は、岐阜県重要無形文化財保持者・多治見市無形文化財保持者の安藤日出武の作品で、この紅志野のカップと鶴の絵のソーサーは、薄紅色でほのぼのとした、とても温かい雰囲気なので、これでコーヒーを飲むと、すごく癒されます。左側のケーキの皿も安藤日出武の作品です。
 ちなみに筆者は、脳波を測定して評価する五感のすべてに対する癒しの研究もしておりますが(当ホームページの『脳波によるリラックス度の評価』を参照して下さい)、視覚の色の部では、ピンクが最も癒されますので、その面からも志野は筆者の癒しに最適のやきものであると思います。



荒川豊蔵作 伊賀志野花入
(伊賀の土を使い志野の釉薬を掛けてあります)

    荒川豊蔵作 志野茄子形香合   荒川豊蔵作 絵志野向附(五客)
(右上は表面、右下は裏面)

荒川豊蔵の手紙(昭和39年3月1日 可児局の消印あり)   荒川豊蔵筆の色紙

昭和54年6月3日に奈良市の安田翁宅で開催されたお茶会の時の写真
(中央の黒い和服姿が荒川豊蔵)


 ニューヨーク・マンハッタンのど真ん中、ロックフェラーセンターのすぐ横にある面白い品がたくさん並んでいる店:ANTHROPOLOGIEで、この壷を見つけました。ニューヨークでは、こんなものも売っているんだ!と感激し、芸術性は決して高くありませんが、物珍しさでつい手が出て購入しました。2011年12月30日のことです。そして、荷物になるのを我慢して、わざわざ日本へ持ち帰った高さ約15cmの壷で、作者や来歴は不明です。



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