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川喜田半泥子のe-美術館

 私設の『川喜田半泥子のe-美術館』へようこそ。
 川喜田半泥子は、当美術館の資料室に解説がありますように、15代続く豪商の家に生まれて裕福な家庭で育ち、さらに本職としては銀行の頭取を26年間も務めるなど財界の要職に就き、さらに県議などもした上に、陶芸もプロ級で、実にすごい超大物の人物でした。
 陶芸はあくまでも余技・趣味としてのものとのことで、作品の販売は一切しませんでしたが、名工であり、市販品にはないような本当に素晴らしい独創的なものが多いようです。私は半泥子のことを、かなり研究していまして、半泥子の考え方には共感し、憧れています。また、半泥子独特のユーモアは癒しになり、私たちの健康長寿に貢献することでしょう。半泥子は、自由奔放に生きて、84歳まで在世でした。
 当館は年中無休ですので、いつでもゆっくりと作品をご鑑賞下さい。


 川喜田半泥子(かわきた はんでいし)は、1878年(明治11年)11月6日に、母親の里である大阪で生まれました。本名は『久太夫政令(きゅうだゆうまさのり)』で、幼名は『善太郎』です。趣味の世界での雅号は『半泥子』です。15代続く木綿問屋の豪商の家系の16代目。伊勢は木綿の里であり、その木綿を持って伊勢商人は古くから江戸に進出し、大伝馬町に軒を連ねました。川喜田家もその豪商として有名で、その繁盛ぶりは、広重の版画にも描かれている程です。そのような非常に裕福な家庭に生まれましたが、祖父と父は半泥子の生後まもなく他界し、わずか1歳で川喜田家16代当主となりました。その時に母親はまだ18歳であったため、その若さで未亡人となるのは不憫と実家に帰され、半泥子は祖母『政(まさ)』の手によって育てられました。政さんの写真と半泥子への教えを次に示します。いくらでも美味しいものを、たらふく食べることができる非常に裕福な家庭でありながら、すでに110年以上も前の時代に、食べ過ぎると体に悪いので食事の量は控え目にするようにと教えていたようで、今でこそ食べ過ぎ(カロリーの摂り過ぎ)は、長寿遺伝子に影響して長生きできないことが科学的に明らかになっていますが、政さんの教えは、当時としてはすごいことです。


 半泥子のメインの職業は、頭取を26年間も務めた銀行家ですが、その他に、県会議員など重要な職が二、三あります。1903年(明治36年)に、百五銀行の取締役に就任しました。この銀行は、1878年(明治11年)12月4日に旧津藩(藤堂氏)の武士たちにより、国立銀行条例に基づく『第百五国立銀行』として創設されたものです。本名:川喜田久太夫(雅号:半泥子)は、1919年(大正8年)に、この銀行の第6代頭取となり、1945年(昭和20年)2月まで、実に26年間もの長期間にわたり頭取を務めました。頭取として、「安全第一」をモットーに健全経営を行う一方で、地元の中小銀行を買収・合併していき、1924年には津市中心部の丸の内に新本店を建設しました。こうして、半泥子の時代に百五銀行は三重県トップクラスの金融機関に成長しました。1945年には百五銀行の頭取から会長に退き、1950年には相談役となりました。

































『百五銀行行歌』(昭和38年制定・創立85周年記念)

二期会合唱団の歌入りのソノシート(レコード)付き
(このソノシートで現在でも問題なく行歌が聴けます)

 半泥子は、自分の郷里の三重県津市にある老舗の西洋料理店『東洋軒』の開店にも尽力しており、さらにこのレストランの名物料理で、地元では誰でも知っている非常に有名な『黒カレー』も、半泥子のアイデアが実現したものです。
 すなわち、日本では西洋料理がまだよく知られていなかった明治30年に、東京の三田に『東洋軒』というレストランが開業しました。時を経て昭和3年には、三重県下初のビルディングであった百五銀行本店(津市:上の写真参照)の4階に、半泥子らの尽力によって東京の『東洋軒』の三重出張所が開店しました。さらに昭和30年になると、現在の所在地である津市丸の内の津城跡のすぐ東側に、大正時代の百五銀行伊賀上野支店の建物を移築し、大正ロマンあふれる趣の有る雰囲気の中で、現在まで繁盛して西洋料理店を続けておられます。ここは筆者も時々食べに行く津市内ではトップクラスの洋食レストランです。
 このレストランの名物料理の『黒カレー』は、半泥子が黒いカレーは作れないかと、当時の料理長の猪俣重勝氏に依頼し、色々と試行錯誤の末についに完成したものです。これは、ブイヨンと小麦粉で作ったルーに、牛脂、スパイス、フルーツや野菜を加えて一月ほどじっくりと煮込んだものだそうです。さらに松阪牛の肉もたっぷり入っております。作るのにとても手間隙かかっており、味にコクや深みがあって、辛さもちょうどよく、とても美味しくて、しかも手軽に食べられるので、当店で一番人気の料理であるのは納得できます。この『黒カレー』は、単品でも注文できますし、『半泥子 特別コース』の中にも含まれておりますが、折角ですから、半泥子を偲んで、下の写真にあるような『半泥子 特別コース』を召し上がってはいかがでしょうか。写真は掲載しませんでしたが、この他にスープやデザートとお洒落な飲み物(各種ハーブティーやコーヒーなどから選択)も付きます。以上で2700円は、料理の内容や店の雰囲気からしてお値打ちです。





 『半泥子 特別コース』のメニュー  その前菜

これが有名な『半泥子の黒カレー』


 半泥子は、銀行の頭取以外にも、三重県財界の重鎮として、三重合同電気社長や明治生命の監査役など、いくつもの会社の要職を務めていました。また、1909年(明治42年)からは津市議会議員、1910年(明治43年)からは三重県議会議員を務めました。
 陶芸は趣味であり、当初はやきものを陶工に作らせていたのですが、なかなか納得の行くものができず、ついに50歳を過ぎてからは、自分で作陶するようになり、1933年には千歳山の自宅に窯を開き、本格的に作陶を開始し、主に抹茶茶碗を製作しました(抹茶茶碗だけでも数万個)。作風は自由奔放、自由闊達、Going My Way、思うがまま、無制限、無制約、余裕、大らか、寛大、好き放題、破格なものです。陶芸のほかに、書や画もよくしましたが、あくまでも趣味としての立場を貫き、生涯に一作品も売ることはなく、出来上がった作品は友人知人に分け与えました。作品を一切市販せずに無償配布していましたので、陶芸などはあくまで趣味・道楽としてのものであり、半泥子は決して職業としてのプロ陶芸家ではありません。半泥子が一生の間に趣味・道楽に使った総額は、現在の金額に換算すると、なんとン百億円にもなると言われており、常識ではとても考えられない超巨額です。庶民の金銭感覚とは全く桁違いです。陶芸に関しては、『昭和の光悦、東の魯山人、西の半泥子』と称されていますが、半泥子自身は芸術家としては光悦を最も尊敬していたようです。光悦も趣味で陶芸をやっておりましたが、その作品のうちで、銘が『不二山』という茶碗は、国宝に指定されております。人間国宝の陶芸家は日本に何人もおられますが、その作品自体が国宝というのは、現在までのところ皆無です。

半泥子の陶芸に対する考え方

































 首が回るようになっているのは、嫌な
人物が来たら後ろを向くためだそうです。


 『半泥子(はんでいし)』というユニークな雅号の由来ですが、これを間違って『はんどろこ』と読み、女性だと思っている人もたまにいるようですが、半泥子は男性です。この変わった名前は、南禅寺の管長にもなったことのある大徹禅師から授かったもので、『半ば泥(なず)みて、半ば泥(なず)まず。』ということに由来しています。その意味は、『何にでも没頭し、泥んこになりながら、それでも冷静に己を見つめることができないといけない。』というようなことです。その他に『無茶法師』、『其飯(そのまま)』など、とてもユニークなのがあります。ここにも彼のユーモア精神が読み取れます。万事がこのような調子で、気取らなく、親しめて楽しい人物です。その一例が、次の茶碗の銘の付け方です。












 底のない茶碗と一部が欠けた小皿のようなものを『金継ぎ』で接合してあるのがよくわかります。こんな奇妙な茶碗は、誰が見ても驚くことでしょう。

 この茶碗を下側から見るとよくわかるのですが、底の欠けた部分を別の茶碗の破片でとても目立つように継ぎ接ぎをしてあり(そのようなのを『よびつぎ茶碗』という)、変わった茶碗なので、見た人が『珍しい茶碗、珍ワン、珍ワン!』と言うので、犬ではなくて猫なら何と言うかなということからの銘なのです。最初に美術館で『ねこなんちゅ』という表示を見た時には、『ね・こ・な・ん・ち・ゅ』と読んでいて、猫はもちろんのこと、何のことかさっぱりわかりませんでしたが、解説文を読んで、半泥子らしいユーモアだなあと関心しました。これに類したことは、半泥子にはよくあります。

 そこで、『ねこなんちゅ』の写真を見せて、半泥子の疑問をアメリカの猫に直接聞いてみましたところ:



【注】この猫は、現在はオレゴン州ポートランド在住で古くからの親友の獣医師Richardson家のメスで、Agnesという名前です。とても 優雅な生活をしているセレブ猫です。Agnesは、アメリカの女性の古い名前だそうです。この家は小高い丘の上にあり、ちょうど今、この家の庭にヒナゲシ(Field Poppy)の花がきれいに咲き乱れています。猫とヒナゲシの花は、2012年6月27日に撮影しました。


なんと、『アグネスちゃん・丘の上・ヒナゲシの花』で、あまりにも話ができすぎていますねー!! 単なる偶然なんでしょうか?


 豊富な財力で、1930年(昭和5年)に「財団法人石水会館」を設立し、同名の文化施設を津市中心部の丸の内に建設して文化事業を支援しまた。文化施設は1945年に戦災により焼失しましたが、財団法人はその後も文化活動を行いました。同年、自宅のある津市南部の千歳山に川喜田家の所蔵品収蔵庫として千歳文庫を建設しました。また、1942年(昭和17年)には『からひね会』を立ち上げて薫陶を施した結果、志野焼の『荒川豊蔵』、備前焼の『金重陶陽』、萩焼の『三輪休雪』の3人の人間国宝を輩出しました。半泥子は、この3人よりも十数歳年上でした。『からひね』という名称は、千歳山の近くにあるやきもの師の祖を祀る『加良比乃神社』に由来しております。戦後、千歳山の自宅が進駐軍に接収されたため郊外の広永へと移転し、自宅にあった窯もこの地に移しました。
 半泥子は、1958年に狭心症で倒れ、ついに1963年(昭和38年)10月26日に、84歳で逝去されました。ヘビースモーカーで葉巻をよく吸っていたようですが、自由奔放に生きたためか、今から約50年前の時代としては、かなり長生きです。




  正門の表札と今回の展観のポスター  駐車場から見た石水博物館

 入り口へ続くスロープ・アプローチ  入り口

 石水博物館のルーツは、半泥子が1930年に地域文化の振興と社会福祉活動の拠点として設立した財団法人石水会館です。津市の中心地にある百五銀行本店の北側から場所を半泥子ゆかりの津市垂水の千歳山に移して、そこに新しい建物を新築し、2011年5月に開館したのが上記の写真の新しい建物です。石水博物館の所蔵品は、半泥子の先祖で豪商であった川喜田家代々の旧蔵品と、16代当主でもあった半泥子の作品も多数保管されています。

半泥子を育てた祖母の政(まさ)の供養のために建立した御堂『紅梅閣』

 『紅梅閣』の正面  御堂の入り口上にある半泥子筆とされている
『紅梅閣』の篇額

 大筋の設計を半泥子が行なった八角形(四角形の角の部分が面取りになっているだけなので四角形にも見える)の平屋建てで、1931年2月22日(政の命日)に開堂式を行なったものです。家紋の梅にちなんで『紅梅閣』と名付けたようであり、内部の左右の白壁には大きな紅梅と、梅と松を描いた小さな169枚の天井画は、半泥子と交流の深かった津市出身の画家・奥田竹石(1901〜1977)の筆によるものです。内部のそれらの撮影も許可されたので、たくさん撮影しましたが、その写真の公開は禁止とのことで、残念ながらここでお見せすることはできません。
 この御堂は、上記の石水博物館に近い南側の岡の上にあり、今まで非公開で近付くこともできず、外観すら見ることができませんでしたが、今回は半泥子没後50年記念で10月から11月の間に計4日間のみ特別に内部まで初公開されたものであり、非常に好タイミングな訪問となりました。


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